谷学発!常識と非常識 第32話 膵臓移植と「モロー博士の島」

(角川文庫版「モロー博士の島」表紙より引用)

   「モロー博士の島」は、ジュール・ベルヌと並ぶ世界のSF界の巨匠、H.G.ウエルズの1896年の作品です。「タイムマシン」、「宇宙戦争」ほど有名な作品ではないようですが、3度も映画化されています。
   この小説のあらすじは、乗っていた船が遭難し、救命ボートに1人残された主人公が漂流中に、動物を満載した奇妙な船に救われ、名もない孤島に上陸します。その島には残虐な動物実験をして文明世界から追放されたマッド・サイエンティストのモロー博士の実験室があり、ヒトとも動物ともつかない奇妙な生き物たちが博士に使役されていました。博士は外科手術により動物からヒトに似た生き物を作り出す実験を繰り返していたのです。しかし博士は悲劇に襲われ、主人公は命からがら島を脱出して文明世界に戻ります。しかし彼がその島の話をしても精神状態を疑われるだけで、しかも彼がその島で経験した恐怖は彼の精神に深い傷を残していました。彼は人目を避け、ロンドンの南の草原に逃れ、ひっそりと余生を送るのでした。
   こんなうす気味の悪い話をなぜここに持ち出したかといいますと、2018年3月7日付の日経新聞朝刊の記事から、昔読んだこの小説を思い出したからです。この記事の見出しには、こう書かれていました:「動物内でヒト臓器 東大特任教授ら国内研究に着手」
   中内啓光教授らは、がんを発症した膵臓をiPS細胞から作った新品の膵臓と交換する治療法を研究しています。研究の概要は、遺伝子操作で膵臓を形成不能にしたブタの初期胚(胚盤胞)にヒトのiPS細胞を注入し、代理の母親ブタの子宮に注入して妊娠させ、生まれたキメラ子ブタの体内でヒトの遺伝子を持つ膵臓を成長させ、これを必要な患者に移植しようという計画です。中内教授らは現在、米国スタンフォード大学でヒツジの体内でヒトの臓器を作る実験を行っており、また日本でもヒトに近いチンパンジーの膵臓をブタの体内で作成する実験を始めています。しかし、日本では動物の体内でヒトの臓器を作ることは規制されています。そこで、国内でもこのような実験を行えるよう国に規制緩和を要望していました。これが年内に認められる見通しとなり、日本での実験開始を新聞に発表したのです。ただし当面解禁されるのはヒトの臓器を動物体内で作成するところまでで、ヒトへの移植は現時点では認められていません。
   中内教授らは2010年に、マウスの体内でラットの膵臓を成長させることに成功しており(※1)、ブタの体内でヒトの膵臓を作成する計画が実現する可能性は十分にあります。実験動物としてブタを使う理由は、ブタのサイズがヒトに近いこと、及びブタなら倫理的問題が少ないと予想されるからでしょう。また、移植用臓器として膵臓を選んだ理由は、膵臓がんが最も治療しにくいがんであり、患者団体からの移植の要望が強いと予想されるからでしょう。
   ただし、臓器移植によるがんの治療にはいくつも難関があります。1つはがんが転移してから膵臓を交換してもあまり意味がないので、がんの早期発見が前提になること、もう一つはブタには無害でもヒトには有害な常在ウイルス等の病原体のヒトへの感染がないことの確認、もう1つはiPS細胞自体の安全性です。これらは地道な臨床研究の積み重ねで確認するしかありません。
   ブタの体内でヒトの膵臓を作成することが可能ならば、他の臓器の作成も可能なはずです。そして、この技術が完全に実用化された将来、巨大な「ヒト臓器製造工場」が作られ、移植可能なあらゆる臓器を作成し、傷んだ臓器と交換することが可能な時代が来るかもしれません。これは人類に恩恵をもたらすでしょうが、一方では極端な高齢化社会をもたらす可能性もあります。
   さて、ここからは余談です。技術的に可能という理由で動物の体内でヒトの脳を作成したり、ゲノム編集で動物の知能をヒト並みに高めて使役しようなどという誘惑に駆られる研究者がでてくるかもしれません。しかし止めておいたほうがよい。それは「モロー博士の島」の再現につながります。ちなみに、「モロー博士の島」では、博士は自分が創造した半獣人の反乱で殺されてしまうのです(※2)。SF映画にはこのような科学技術の誤った使用を警告する作品が多く、「モロー博士の島」と似た作品もいくつかあります。例えば「ジュラシックパーク」はその分かり易い例で、「絶海の孤島」での「動物改造」は、「モロー博士の島」と重なります。もっと手が込んだ作品もあります。「猿の惑星]シリーズです。第1作でチャールトン・ヘストンが演じる主人公は700年ほど未来のNASAの宇宙飛行士です。宇宙船の事故で何百年も冬眠状態のまま宇宙をさ迷ったあげく、サルがヒトを支配する奇妙な惑星に着陸します。サルに捕獲された彼が脱出に成功し、サルたちには行くことが禁止されている「禁断の地」に向かいます。その入り口で彼が見たものは胸まで砂に埋もれた自由の女神。そのラストシーンで彼が発した言葉が印象的でした:
“Oh My God! They finally did it!”
   この「人類がついにやっちまったこと」は核戦争を意味します。「猿の惑星」第1作が作られた1968年はベトナム戦争の最中で、核戦争の恐怖が高まっていました。しかし、「人類がついにやっちまったこと」が核戦争だけではなかったことが「続・猿の惑星」で明かされます。サルが短期間にヒト並みの知能を獲得した理由は、未来の人類がサルに遺伝子操作を加え、ヒト並みの知能を持たせて使役していたからでした。核戦争によって人類社会が崩壊したとき、サルたちが反乱を起こし、ヒトを支配するようになったのです。つまり、ヒトが「動物を改造」した結果、「悪夢のような世界」が生まれたという点で、「猿の惑星」は「モロー博士の島」と重なるのです。
   次の第33話では、腎臓移植問題を取り上げます。

(馬屋原 宏)

1)Kobayashi T, Yamaguchi T, Hamanaka S, Kato-Itoh M, Yamazaki Y, Ibata M, Sato H, Lee YS, Usui J, Knisely AS, Hirabayashi M, Nakauchi H.: Generation of rat pancreas in mouse by interspecific blastocyst injection of pluripotent stem cells. Cell. 2010 Sep 3;142(5):787-99.
2)「モロー博士の島」はYouTubeで朗読を聞くことができます(無料)。「モロー博士の島」と「動画」で検索。https://www.youtube.com/watch?v=jkH8BShKvtw)