谷学発!常識と非常識 第34話 成人の脳神経細胞は増殖するか?

1.老いても脳は生まれ変わる?

   2018年4月6日のNHKテレビとNHK Web Newsは、「老いても脳は生まれ変わる 米コロンビア大の研究」と題して、亡くなった直後の14歳から79歳の男女28人の脳を調べた結果、「海馬から未成熟の神経細胞が多数見つかった」と報道しました。

海馬の位置:文献1より引用

大脳辺縁系:文献2より引用

   海馬とは大脳辺縁系を構成する構造の1つで、左右の大脳側頭葉の内側に1対存在する直径約1cm、長さ5cm程度の細長く湾曲した組織で、タツノオトシゴによく似た形から海馬と命名されました(上図参照)。歯状回は海馬の横断面に現れる構造で、顕微鏡的には顆粒神経細胞という小型の神経細胞やグリア細胞が層状に密集しています。なお海馬に関する詳細は文献3と4を参照。文献3には回転する立体動画があり、海馬の位置や形状を3次元的に理解できます)。
   ところで、この放送をご覧になった方のなかには、「あれ? そんなことは前から知っていた。成人の脳の神経細胞の新生は常識ではなかったか?」と思われた方もあったはずです。1998年、エリクソンとゲージが既に、「ヒトの海馬においては生涯に渡って神経細胞の新生が起きる」と報告しているからです(※5)。今回の放送では神経細胞新生の年齢差がないかのような報道でしたので、オリジナル論文で確認したところ、以下のような年齢差がありました(※6):
   (1) 海馬歯状回には、中間神経前駆細胞、未成熟ニューロン、グリアおよび成熟顆粒ニューロンについては年齢を問わず同程度に認められ、また歯状回の大きさも変わらなかった。
   (2) 高齢者では、前部・中部の海馬歯状回では血管新生および神経可塑性(注:新しい神経回路を作る能力)が比較的低く、静止期前駆細胞のプールも少なかった。後部海馬の歯状回では年齢による差は認められなかった。
   さて、「成人の脳神経細胞は増殖しない」という「常識」は1906年にノーベル生理学・医学賞を受賞したスペインの神経細胞学者、カハール(S.R.Cajal, 1852 – 1934)に始まると言われています。この「常識」は今でも生きています。例えば東大薬学部の脳科学者、池谷裕二教授のホームページには、脳が記憶を蓄えるときの神経回路の増加の機構として、①神経細胞の分裂、②神経細胞の枝の分岐、③シナプスの増数、の3つの可能性を挙げ、続けて次のように書かれています:
   「脳は新しい回路を形成するために一体どの機構を用いているのでしょうか。まず1つ目の機構はありえないでしょう。実際、脳の神経細胞の数は生まれたときが一番多く、年齢を経るに従って減っていきます。(※4)
   しかし、文献5と6は、少なくとも海馬歯状回では生涯に渡って神経細胞が新生し、新しい神経回路が作られ続けていることを示唆しています。では「成人の脳の神経細胞は増殖しない」は誤りなのでしょうか? これは「脳」の定義で決まります。「脳」に大脳辺縁系を含めなければ正しいし、「脳の神経細胞の総数は増えない」という意味でも正しい。しかし、大脳辺延系を含めて「脳」という場合もあり、その場合は海馬での神経細胞新生を無視することになります。真相は「海馬歯状回では成体でも神経細胞は新生し続けるが、脳全体では死滅していく神経細胞のほうが多いので神経細胞の総数は減少し続ける」、と理解すべきでしょう。いずれにせよ、上記のNHKニュースの見出しの「老いても脳は生まれ変わる」は、いささか誇大表現です。脳の大部分を占める大脳や小脳には未成熟神経細胞は認められていないからです。

2.神経細胞の新生はどこで起きるか

   ヒトとはかなり構造が異なりますが、詳細に検討されているマウスの成体の海馬の歯状回では、顆粒細胞層の深部の顆粒細胞下層で神経細胞の新生が起きます(※7)。この「新生」は休止期にあったType-1細胞が分裂を再開して、幼若神経細胞のマーカーを持つ細胞となり、さらに分裂能をもつType-2細胞を経て、新生神経細胞へと分化します。Type-1細胞は神経幹細胞と考えられます。なおマウスでは嗅球(嗅覚情報処理に関わる脳組織)の神経細胞新生が最も活発です。

3.海馬歯状回における神経細胞新生の役割

   ではなぜこの海馬歯状回だけ例外的に成体でも神経細胞が新生し続けているのでしょうか。現在の脳科学では、海馬歯状回で新しく生まれる細胞の役割は「新しい情報の細かな違いを見分け、これを記憶することにある」というのが有力な仮説です(※1)。
   すなわち、新しい記憶を形成するとき、記憶を最初から最後まで全く新しく形成するのではなく、大部分は古い記憶を再利用しており、過去の経験と異なるところだけを、海馬歯状回で新生された細胞を使って、新しい神経回路を作ることで新しい記憶を形成している可能性があります。このとき新生細胞とその新しい神経回路は、新しい記憶のインデックスかラベルのような役割を果たしていると考えられます。この仮説によって、説明が容易になる現象があります: 我々が年をとると、新しいことを覚えるのが苦手になり、思い込みによる間違った行動が増えたり、また、他人の意見を容易には聞き入れないなどの傾向が強まります。これらは全て「新しい記憶の形成よりも、古い記憶の利用が優位になる現象」と一括することができます。その原因は海馬歯状回での神経細胞新生の減少により、新しい記憶の形成能力が衰えるためと説明できます。逆に、年をとっても好奇心旺盛で、常に新しいことに興味を持つ人は、海馬歯状回での神経細胞の新生が比較的多く、精神年齢が実年齢より若い可能性があります。
   次の第35話は、玉子とコレステロール関連の話題です。

(馬屋原 宏)

1)川村光毅:http://health.neoluxuk.com/index.php/Cat1No/A100/
2)Akira Magazine:http://www.akira3132.info/limbic_system.html
3)Wikipedia 海馬(脳):https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E9%A6%AC_(%E8%84%B3)
4)池谷裕二:http://ikegaya.jp/
5)Eriksson P S et.al.,:Neurogenesis in the adult human hippocampus. Nat. Med.: 1998, 4(11);1313-7
6)Boldrini M.et.al.: Human Hippocampal Neurogenesis Persists throughout Aging. Cell Stem Cell. 2018 Apr 5;22(4):589-599.
7)Imayoshi I. et al. Roles of continuous neurogenesis in the structural and functional integrity of the adult forebrain. Nat Neurosci. 2008 Oct;11(10):1153-61. doi: 10.1038/nn.2185. Epub 2008 Aug 31.