谷学発!常識と非常識 第37話 ゲノム編集と生物進化

(文献1より引用)

   生物は突然変異や自然選択の積み重ねにより、長い年月をかけて進化してきたというのがこれまでの生物学の「常識」でした。しかしこの常識を完全に破壊しつつあるのがゲノム編集技術です。第36話では、細菌が過去に攻撃されたウイルス由来のDNAの断片を自己のゲノム中に取り込んでCRISPR(反復クラスター)として保存しており、再度同じウイルスの攻撃を受けた場合に、この保存情報を転写してガイドRNAを作成し、侵入したウイルスのDNAを検出しこれを破壊する獲得免疫能力を持つことを紹介しました。この細菌のCRISPRシステムを利用すればゲノム編集ができることに気付いたのがスウェーデンのエマニュエル・シャルパンティエと米国のジェニファー・ダウドナという2人の女性研究者たちでした。

1.ゲノム編集の流れ

(文献2より引用)

   二人が考案したCRISPR/Cas9法は、①改変すべき遺伝子を見つけ出し、②その遺伝子を切断・破壊し、③導入したい遺伝子を挿入する、の3段階から構成されます(左図参照)。編集したい遺伝子を発見する役割を持つのは、その遺伝子の塩基配列情報から転写・合成されたガイドRNAであり、標的遺伝子と相補的に結合する能力を持ちます。DNA鎖を切断する「はさみ」の役割をするのは「Cas9」と呼ばれる細菌由来のDNA切断酵素で、両者が結合したものがCRISPR/Cas9です。これらは1体として働きます。このゲノム編集法の使い方は2つあり、1つは新規の遺伝子を挿入して、その生物が持っていなかった新しい遺伝形質を導入する方法です。もう一つは遺伝子の挿入はせず、特定の遺伝子を切断・破壊するだけで目的を達成できる場合です。後者の1例を挙げると、生物やその臓器は、一定の大きさまで成長すると成長が止まりますが、それは成長を止める抑制因子が産生されるためです。この成長抑制因子遺伝子を破壊すればその生物は通常以上に成長するようになります。かつて農薬会社が除草剤耐性遺伝子を組み込んだ遺伝子組み換え大豆を売り出し、多くの消費者に嫌われましたが、遺伝子導入をしないゲノム編集による品種改良は交配による通常の遺伝子改良と殆ど変わらないので、特に食品の品種改良に重宝されています。CRISPR/Cas9法が発表されてまだ数年ですが、この方法を使用して、例えば畜産では筋肉量が通常の2倍の肉牛、水産では超肥満型マダイ、農業分野では通常よりも巨大な果実やより長持ちするジャガイモ、洪水に強い米、干ばつ耐性のトウモロコシ、大粒で防カビ性のある小麦、実が大きくなっても落ちないトマトなどが既に生まれています(※3)。

2.ゲノム編集の用途

   ゲノム編集技術CRISPR/Cas9は、ヒトの遺伝性疾患の遺伝子治療にも使用できます(ヒトの遺伝子治療への応用は次の第38話で扱います)。しかし、この技術の発明者の1人ダウドナ教授は「この技術はまず農業分野で使用されるべきだ」と語っています(※4)。ダウドナ教授は、過去数年間にわたり、CRISPRが潜在的に抱えている「リスク」と「利益」について、世界中の科学者、政治家、政府機関と話し合いを重ねてきた結果、ヒトのゲノム編集には解決すべき多くの問題が残されていることを誰よりもよく知っています。たとえばCRISPR/Cas9法は、オフターゲット効果(目的としない遺伝子にまで作用して、不必要な遺伝子変異をもたらすこと)が多いことが分かってきました。このことはこの技術をヒトの遺伝子治療に応用すると、予想もしなかった副作用をもたらす可能性が高いことを意味します。

3.ゲノム編集と生物の進化

   人類はゲノム編集技術を手にしたことによって、ヒトを含む地球上のあらゆる生物の進化を人工的に支配する手段を獲得したことになります。これは文字通り大変なことです。この技術が野放しに使用されますと、地球全体が第32話の「モロー博士の島」状態になる恐れがあります。更に、批判勢力を持たない独裁政権がゲノム編集技術を使えば、反政府的な個人や民族の遺伝的浄化に使われる可能性があり、また、生物兵器の開発に使われると、いくらでも殺傷力を高めることも可能でしょう。そうなればゲノム編集技術は原水爆に劣らない「悪魔の兵器」になる可能性があります。
   次の第38話ではゲノム編集技術によるヒトの遺伝性疾患の遺伝子治療への応用を扱います。

(馬屋原 宏)

1) 東京ガス:http://tg-uchi.jp/topics/4257
2)YAHOO!ニュース:https://news.yahoo.co.jp/feature/603
3)鈴木 富男:https://katosei.jsbba.or.jp/view_html.php?aid=655
4)WIRED JP:https://wired.jp/2017/06/15/jennifer-doudna-business-conference/