谷学発!常識と非常識 第52話:海洋大循環の謎
1.海洋大循環の謎
第49話で北極海の温暖化に関係する北太西洋海流が海洋大循環の一部を形成することを紹介しました。今回改めて海洋大循環を取り上げる理由は、海洋大循環がなんと地球寒冷化にも関係しているからです。下の図(文献1より引用)は第49話で引用した海洋大循環の図を立体的にしたものです。
海洋大循環は、提唱者の名にちなんで「ブロッカーのコンベアーベルト」とも呼ばれます。北極海(図の左上)で海氷の形成時にできる塩分濃度の高い重い海水が深海に沈み込んで深層海流となり、青色のベルトに示されるような経路で大西洋の底を南下して南米の南端に達し、一部はインド洋、残りは太平洋を北上し北部太平洋に達し、そこで湧昇して表層海流となり、赤色のベルトのような経路で西太平洋、インド洋、アフリカ南端を回り、メキシコ湾流を経て北部大西洋に戻ってくるとされます。
海洋大循環には途中から南極海で産生される深層海水も加わりますが、北部大西洋で産生される深層海水が全体の9割以上を占めると言われます。その理由はメキシコ湾流とその支流の北大西洋海流が世界で最も塩分濃度が高く、氷結したときに最も効率的に深層海水が産生されるためです。
上図の海洋大循環の経路のうち深層海流部分(青色、往路)には明確な証拠があります。深層海水が深海に沈み込んでからの年代の古さです。深層海水の年代はその中に含まれる炭素14の量で測定可能であり、年代は北部大西洋ではゼロ年に近く、南大西洋で約200-300年、南部太平洋で500-700年、北部太平洋では1000-1200年と、この順に古く、北部大西洋で形成された深層海水が1200年もかかってこの経路で移動したことが分かります(※2)。問題はその後の経路です。謎が2つあります。
2.深層海水の表層への湧昇の謎
第1の謎は深層海流から表層海流への湧昇の問題です。図ではインド洋と北太平洋で深層海流が1本のベルト状に湧昇していますが、実際にはこんなことはありえません。深層海水は重くて低温(約2℃)なので、これを3000m以上もの深海から海表面まで湧昇させるには深層海水を暖めて軽くする仕組みが必要ですが、例えば太陽光は水深数10mしか届かないので、太陽光が水深3000m以下を流れる深層海流を直接温めて湧昇させることはありません。
この問題を研究しているのが東京大学海洋アライアンスのグループです。左の図(文献2より引用)は、深層海流の湧昇の仕組みを説明する仮説の1つです。黒潮の末端は北部太平洋で大きな乱流(渦)を形成しますが、この渦は様々な深度で無数の小さな渦となって表層の熱を徐々に深層海流に伝えていると考えられます(※2)。最近NASAが衛星観測による世界の表層海流の動きを動画で公開しましたが、北部太平洋は世界の海域の中でも特に広い範囲にわたって細かい乱流がぶつかり合っています(※3)。
すなわち深層海流は、非常に広い海域で乱流を介して湧昇していると考えられます。
3.北部太平洋から北大西洋への表層海流の復路の謎
海洋大循環に関する第2の謎は、北部太平洋から北部太西洋に戻ってくる経路(復路)がよくわからないことです。どのような海流図を見ても(例えば第49話の海流図参照)、上図の赤いベルトのような北部太平洋から北部大西洋につながるひと続きの表層海流は記載されていません。最も詳細な最新のNASAの表層海流図(文献4より引用)を下に引用します:
この図では、赤道の北を西に流れる北赤道海流(N. Equatorial Current)が図の右端のマレー半島のあたりから南下して南赤道海流となり、インド洋を西に横断し、アフリカの南端を回って大西洋に入り、大西洋を横断して南米大陸の北岸を通ってメキシコ湾流となリ、北部太西洋に戻る海流を途切れ途切れではありますがなんとか辿ることができます。
2008年に放映された海洋大循環に関する「NHKスペシャル」の動画のナレーターの表現を借りれば、海洋大循環は「いくつかの海流を乗り継いで」北部大西洋に帰ってくるのです(※5)。
4.海洋大循環の原動力
海洋大循環の原動力は主に北極海における低温で重い海水の深海への沈み込みであり、「熱塩循環」とも呼ばれます。海洋大循環における深層及び表層海水の動きはこの沈み込みによって生じる水位差で説明できます。深層海水は主に北極海で産生されるため、深層海水の水位はそれが沈み込む北極海で最も高く、インド洋や北部太平洋では深層海水は湧昇によって減少し続けるため水位が最も低いので、深層海流はこの水位差に従って流れていると考えられます。一方、深層海水が北極海から流出すると北極海の海面水位が低下します。メキシコ湾流の支流の北大西洋海流が北極海に侵入するのは、この水位差を埋める流れであると説明できます。また深層海流は南大西洋からインド洋へと流出するので、大西洋の表面水位がインド洋よりも低下するため、インド洋から大西洋に向かう表層海流が生じると説明できます。
5.海洋大循環の役割
海洋大循環には少なくとも3つの重要な役割があります。1つは北極海や南極海から低温の深層海水をインド洋や太平洋に運搬し、そこで湧昇させることにより、これらの海域の過度の水温上昇を防ぐ役割です。この機能はサンゴなどの生態系の維持や、気温の過度の上昇を防ぐために役立っています。第2の役割は暖流のメキシコ湾流を欧州の高緯度地方や北極海に送り込んで高緯度地方の気候を和らげることです。1万年以上続く現在の温暖期の気温が非常に安定しているのは海洋大循環が順調に機能し続けているためと考えられています。海洋大循環の第3の機能は地球寒冷化です。これは正常な機能ではなく、上記の第1と第2の機能が損なわれたときに起こる異常現象ともいえます。
6.海洋大循環と地球寒冷化
グリーンランドの氷床コアの分析データから、最後の氷河期から現在の温暖期への移行期に、短期間の氷河期への逆戻りが繰り返し起こったことが分かってきました。その変化は3年から数10年という極めて短期間にグリーンランドの平均気温が約5~10℃も低下するという驚くべき気温変動でした。その最後のものはヤンガー・ドリアス期と呼ばれ、約13000年前に起き、約1000年続きました。当時まだ氷河期の名残の巨大な氷床がカナダ北部に残っていましたが、温暖化による後退の過程で巨大な氷河湖が形成され、水を堰止めていた氷河の壁が決壊して大量の淡水が一挙に北部大西洋に流れ出したことが原因と考えられています。証拠はカナダの山岳部に大洪水の痕跡が多数存在することです(※5)。またその少し前の別の寒冷化では、ハドソン湾から大量の氷山が北部大西洋に流出したことが原因で起こったと考えられています。証拠は氷山に含まれていたハドソン湾起源の小石や砂が陸から遠く離れた北部大西洋の海底に広く堆積していることです(※6)。このような突発的事件で北部大西洋の表面が低温の淡水で広く覆われると、寒気で海水が凍結しても塩分濃度の高い重い海水が産生されず、深海への沈み込みがなくなり、深層海流の流れ出しが止まります。ドミノ倒しのコマがどこか1カ所で止まるとそこから先の動きが瞬時に停止するように、深層海水の流出の停止により海洋大循環全体が停止し、高緯度地方を温めていたメキシコ湾流も、その支流の北大西洋海流も停止し、高緯度地方の急速な寒冷化が始まり、氷河時代に逆戻りしたと考えられています(※5,6、7)。
ただし、この仮説には問題が1つあります。メキシコ湾流や黒潮のような表層海流は風成循環とも呼ばれ、その主な原動力は貿易風や偏西風などの風の力なので、深層海流が完全に停止してもメキシコ湾流まで完全停止するとは考え難いことです。したがってメキシコ湾流が停止しなくても北極海が寒冷化するメカニズムを考える必要があります。この問題は4項で述べた水位差の概念の応用で片付きます。北極海からの深層海水の流出がなくなれば北極海の表面水位の低下もなくなるので、この水位差によって北極海に流入していた北大西洋海流が消失し、北極海の急激な寒冷化が始まったと説明できます。この場合でもメキシコ湾流は停止しませんが、北大西洋海流という支流が消失し、メキシコ湾流は低緯度を循環する閉じた循環海流になると考えられます。
このように海洋大循環の異常がヤンガー・ドリアス期のような急激な寒冷化を起こした可能性が高いことから、過去の10万年周期の温暖期-氷河期サイクルにおける温暖期から氷河期への移行も、温暖化の進行自体が海洋大循環を停止させることによって氷河期への移行のスイッチを入れた可能性が出てきました。第49話で紹介したように、近年北極海の温暖化が驚くべき速度で進んでいます(※7)。この急激な温暖化によって北極海における深層海水の産生が減少しており、深層海流の速度が急速に衰えているという報告があります(※6、7)。これだけで氷河期が始まるとは考えにくいのですが、たとえばグリーンランドには過去12000年続いた温暖期に耐えて厚さ最大2000mの氷床がまだ残っています。今後の温暖化の急速な進行によってこの氷床が崩壊して北部大西洋に滑り落ちるなどの突発的な事件によって海洋大循環が完全に停止し、氷河期が始まると心配する人達もいます(※6、7)。海洋大循環にはまだ不明な点が多く、今後も北極圏の監視が必要です。
次の第53話からは改めて地球温暖化の原因について各種の学説を3回に分けて調べます。
(馬屋原 宏)
1)国立環境研究所:https://www.nies.go.jp/escience/ondanka/ondanka02/lib/f_04.html
2)東京大学海洋アライアンス:https://www.oa.u-tokyo.ac.jp/learnocean/knowledge/0017.html
3)NASA: https://www.youtube.com/watch?v=JQaEKk569Ew
4)NASA:https://icp.giss.nasa.gov/research/ppa/1997/oceanchars/currents.html
5)NHK:https://www.youtube.com/watch?v=pc8EXsF6ld4
6)W.ブロッカー・R.クンジグ著、内田昌男監訳:『CO2と温暖化の正体』河出書房新社(2009)
7)ピーター・ワダムズ著・榎本浩之監訳・武藤崇恵訳:『北極がなくなる日』.原書房(2017)