谷学発!常識と非常識 第69話 生命の起源と進化:生命の定義③ ――シュレーディンガーの生命論

1.生命はエントロピー増大の法則に抵抗する

第68話で生命の定義を7種類紹介しましたが、そのうち2つはシュレーディンガーの考え方を反映したものでした。オーストリア生まれのエルヴィン・シュレーディンガー(18871961)は、量子力学の「シュレーディンガー方程式」を提唱し、1933年にノーベル物理学賞を受賞した理論物理学者です。ユダヤ人の彼はナチスドイツの祖国占領から逃れるためアイルランドのダブリンに亡命し、そこで物理学的観点から生物を考察し、1943年に“What is life”と題して講演し、翌年その内容を出版しました。この本は日本でも1951年に『生命とは何か』の邦題で翻訳出版されました(※1)。物理の世界では、全ての物質は自然のままに放置されるとエントロピー(無秩序さ)が増大し続けます。例えば、熱いブラックコーヒーに白いミルクを垂らすと、時間とともに均一な茶色になり、温度も周囲の気温と同じになるまで下がりますが、その逆は決して起こりません。 これがいわゆる『エントロピー増大の法則』です。彼は生物が生きている間はこの法則に従わないように見えることに注目し、その仕組を考察しました。上記の本にはその仕組について次のように書かれています:

「生きているための唯一の方法は、周囲の環境から負エントロピーを絶えず取り入れることです。生物が生きるために食べるのは負エントロピーなのです。このことをもう少し逆説らしくなく言うならば、物質代謝の本質は、生物体が生きているときにはどうしてもつくり出さざるをえないエントロピーを全部うまい具合に外へ棄てるということにあります。」(※1)

2.「生物が食べるのは負エントロピーなのです」の意味

上記引用文の前半は難解です。そのまま受け取れば「我々は食物に含まれる負のエントロピーを食べて生きている」と読めます。ある生物学者は以下のようにシュレーディンガーを批判しました:

「シュレーディンガーは誤りを犯した。実は、生命は食物に含まれる有機高分子の秩序を負のエントロピーの源として取り入れているのではない。我々が食物を摂取した後、ことごとく分解し、そこに含まれる情報を むざむざ捨ててから吸収している。」(※2)。

この批判者は「負エントロピー」を、「食物に含まれる有機高分子の秩序であると受け取りましたが、原著にそう書いているわけではなく、それは批判者の解釈です。それに、ノーベル賞受賞者がそう簡単に誤りを書くとも思えません。では前半の文章はどう解釈すべきでしょうか。そのヒントはシュレーディンガーの文章の2~3行目の、「もう少し逆説らしくなく言うならば」にあります。これから分かることは、前半の文章が逆説的表現であることです。広辞苑によれば、逆説とは「一般的に信じられている説とは逆の表現」であり、例として「急がば廻れ」と「負けるが勝ち」を挙げています。すなわち前半の文章は「急がば廻れ」的に、省かれた説明を補って解釈する必要があります。シュレーディンガーの真意は後半の、「物質代謝の本質は生物体が生きている限り増大し続けるエントロピーを全部外へ捨てることにある」ですが、そのためには熱力学的な「仕事」、すなわち外部からのエネルギーの流入が必要です。前半の文章はこの当然すぎることを省いたために逆説的表現になっているのです。省かれた部分を補えば前半の文章は次のように解釈できます:「生きているための唯一の方法は、周囲の環境から食料として取り入れたエネルギーと資源を使って、増大し続ける体内のエントロピーを体外に捨て続けることです。生物が食べるのは、食物のエネルギーで体内のエントロピーを下げるためなのです。」

3.個体発生とエントロピー増大の法則

エントロピー増大の法則に反するように見える生命現象の代表例の1つが個体発生です。ニワトリの発生を例に取ると、有精卵を37.5℃で21日間温めるとヒヨコが誕生します。生卵とヒヨコを比べると、ヒヨコのエントロピーが減少していることは明らかです。卵は殻があって閉鎖系のように見えるので、卵内でエントロピー増大の法則に反した現象が起きたように見えます。実際には卵は開放系であって、生卵がヒヨコになる過程でエントロピーが減少したのはエネルギーを消費したためです。そのエネルギー源の1つは卵を外部から温めたことですが、卵の黄身の脂肪も代謝されて内部からのエネルギー源になります。卵を生むために親鳥が食べた飼料や、孵卵器の消費電力まで含めたトータルの系で計算すれば、エントロピーは増大しています。

生卵がヒヨコになるときの設計図や建築士に当たるものが胚細胞が持つ遺伝情報です。胚細胞が孵卵されると染色体上の遺伝情報が次々と時間差的に発現し、卵内の栄養物質を代謝して酵素やタンパク質等を次々に合成し、細胞を分化させ、組織や器官を構築してヒヨコにします。すなわち遺伝情報がエネルギーを消費してエントロピーを減少させたと言えます。このようにエントロピーは情報と関係しています。情報理論では “情報量IはエントロピーSの減少量(=負エントロピーNの増加量)に等しい”と定義されています(※3)。

4.系統発生とエントロピー増大の法則

エントロピー増大の法則に反するように見えるもう1つの生命現象が「系統発生」、すなわち長時間をかけて簡単な生物から複雑な生物が進化することです。これはドーキンス風に言えば「遺伝子の長期連続性」とも言えます。例えば我々の遺伝情報は両親に由来しますが、両親の両親、そのまた両親と祖先をたどっていくと、最初の生命にまで、約40億年もさかのぼることができます。この間我々の遺伝情報は進化により徐々に複雑化しましたが、殆ど変化しない遺伝子もあります。例えば真正細菌の16SリボソームRNAの重要部分は、およそ35億年前から変っていないと言われます(※4)。これだけの長期間遺伝子が変化しない理由を極端な例を用いて説明しますと、いかなる突然変異も致死的となる遺伝子があったと仮定します。この場合、突然変異を起こした個体は子孫を残せないので、生き残る個体は全て100%正確な遺伝子複製をした個体に限られます。このような細菌は分裂を何億回繰り返しても遺伝子は不変であり、結果的にその遺伝子は半永久的に保存されます。これに近いことが生物の歴史でも実際に起こったために16Sリボソーム遺伝子は35億年も不変だったと考えられています。多細胞動物でも、例えば環境が殆ど一定の深海に棲む硬骨魚シーラカンスは、3億8000万年前から現代まで、その姿を殆ど変えていません。

5.生命システムと伊勢神宮

話は飛躍しますが、伊勢神宮は千数百年前の建設当時の姿と新しさのまま維持されています。その理由は20年に1度全ての建造物を解体して新築し、同時に全ての装束等も更新されるからです。古代の日本人が伊勢神宮を永遠に維持するために考案したこのシステムを「式内遷宮」といいます。これは実は神宮のエントロピーの増大を永遠に阻止するためのシステムです。生物が機能的・形態的な安定性を保つ方法もこれとよく似ています。上皮細胞や臓器の多くは細胞の交換が可能なので、幹細胞の分裂により絶えず新細胞により置換されています。一方、神経細胞のように置換が困難な細胞も新陳代謝により細胞を構成する分子を絶えず置換してエントロピーの増大を阻止しています。

(第70話「生命の定義④――生命と非生命の境界」に続く)
(馬屋原 宏)

引用文献

1)E.シュレーディンガー:『生命とは何か―物理的にみた生細胞』、岩波新書(1951)
2) 福岡伸一:『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書)(2007)
3)妹尾学:https://www.jstage.jst.go.jp/article/kagakutoseibutsu1962/16/3/16_3_172/_pdf
4)胡谷和彦:http://www7a.biglobe.ne.jp/~number/entropy.html