こころ(4) 武田薬品での安全性評価の想い出 -転勤-

2021.11.2
名古屋市立大学薬学部
土井孝良

 私が在籍していた頃の武田薬品の薬剤安全性研究所は、大阪地区以外に山口県の光市にある工場の敷地内に支所があった。工場での余剰人員の活用化のために作られたという噂があった。当時の私は40歳代の働き盛り、意気揚々と仕事をしていた。出世も目指していた。道修町にある本社部門と連絡を取りながら、臨床試験の開始や新薬の承認申請のための安全性試験の実施、資料の作成、そして会議に明け暮れていた。充実した毎日であった。そしてある日、上司の呼ばれた。

  光にある支所に転勤という辞令だった。私の担当分野を光支所で担当している方と交代とのことだった。晴天の霹靂である。仕事で何かミスをした覚えはない。光の支所は数年後に閉鎖するのでその手伝いをしてほしいという命令である。何で私がそのような仕事をしに光支所に行かなければいけないのかという思いがふつふつと湧いてきた。

  光支所の私と交代する方は定年退職まであと数年であった。光支所でのゆっくりとした生活の中で定年を迎えることを望んでいた。私はバリバリと大阪で仕事をすることを望んでいたのだ。会社の辞令に個人の思惑は関係ない。自宅に帰り、妻に転勤の話をした。妻も私以上に晴天に霹靂であった。3人目の子供はまだ小さかった。すまないと思ったが会社を辞めるわけにはいかない。私にはどうしようもないと説明した。単身赴任することになった。妻をなだめなだめて引っ越しの準備をした。10日後に光の支所に赴任という辞令だったのだ。

  光市はのどかなところだった。遊ぶところなどはなかった。自然が遊び相手である。瀬戸内海に面しているので釣り好きには最高の場所ということだったが、釣りは好きではなかった。夜になると空が真っ暗闇になり、星が今にも落ちてきそうなほど輝いていた。車の運転もあまり好きではなかったので、1時間歩いて通勤をした。

  光支所は工場の中にあるせいか、仕事は17時頃に終わることが多かった。海を眺め波の音を聞きながら社宅まで帰った。武田薬品での出世は終わったと思った。むしろ終わりにしようと思った。3人目の子供は40歳代に出来た。このとき、これからの人生は太く短くではなく、細くとも長くと決めた。そして、光市の支所への転勤はこの思いを確信に変えた。出世や自己評価を上げることに執着するのをやめようと思った。自分が実施した業績にもこだわらないことにした。人と争うのはやめにしたのだ。

  光支所での安全性評価の仕事もゆっくりしていたし、所員ものどかで親切だった。広い社宅は瀬戸内海に面したところに立っていた。夏休みになると家族が海水浴にやってきて数日を過ごした。家族は大阪生まれ大阪育ちなので毎年大喜びだった。仕事も順調に動き出した。光支所の所員には一体感があり助け合い精神があった。住めば都である。私も地元の所員の方々とお酒を飲むのが楽しみになった。

そして、数年が経過した。今度は大阪に戻り、動物実験管理室の責任者という辞令を受けた。私は理学部化学科出身なので実験動物はあまり得意ではないと説明したが、決まった辞令ですという返事だった。

出世と人と争うことを避け、実験と研究と論文作りに静かに励んだ。その結果、50歳の後半に大学からお誘いを受け、教授職として転職することが出来た。今振り返ってみると、もし私が光支所に転勤にならず大阪に残っていたら、会社の中で起こったグローバル化の波に確実に見込まれていたと思う。張り切りすぎて体を壊していたのではないだろうか。私はそういうタイプの人間なのだ。人生万事塞翁が馬、人生を冷静に見つめて生きていきたいと思う。