「谷学物語-期待される未来像」
佐藤 哲男
「谷本学校」とのかかわり
今から十数年前に、初代の代表幹事である松本一彦さんから「谷学」の事を紹介された。谷本義文先生については、私が千葉大学に在職中に先生の著書を拝読し、お名前は存じ上げていたが、松本さんとの関係は知らなかった。「一度奈川のフォーラムに来ませんか」という松本さんのお誘いで早速翌年参加させて貰うことにした。本稿をまとめるに当たって、谷学の生い立ちについて何も知らないのは失礼と思い「谷本学校」のホームページを検索した。また、私が本稿を書くことを考えた理由は、若い会員の皆さんは、恐らく完成した今日の谷学の姿をみているが、創成期の流れも知っておく必要があると思ったからである。
1986 年7月の第13回日本毒科学会年会(現日本トキシコロジー学会)(東京)では、当時実験動物中央研究所(実中研)に勤務されていた谷本先生と、当時東洋醸造の研究所におられた松本さんの二人の司会で「検体の採取をめぐって」という主題のワークショップが組まれた。発表者は、皆さんご存知の野村 護(第一製薬)、大野泰雄(国立衛試)、小林孝好(ヘキスト・ジャパン)、森岡 浩(ヘキスト・ジャパン)、中山邦夫(日研化学)、鈴木修三(実中研)(敬称略)など谷学の礎を築かれた顔ぶれである。その後、この人たちが中心になって毒性学の寺子屋教育とも言うべき「谷本学校」を開校し、1992年8月に、第1回奈川フォーラムが開催された。今から18年前である。私がここで言いたかったのは、創立18年を過ぎてもなお脈々とその活動を拡げている谷本学校には、それなりに何か若い研究者を引きつけるものがあるに違いないと感じたからである。
松本さんに誘われて参加した2泊3日のフォーラムで私は多くの事を学んだ。
いわば競合会社の研究者が一堂に会することにより、社内の先輩にも聞けない仕事上の切実な悩みを解決する場として機能していることである。その多くは、創薬に携わる者が持っている共通の悩みである。その人々にとって何ヶ月も悩み抜いてきたことが、奈川フォーラムで解決されたとしたら、本人にとっては何にも勝る収穫に違いない。これが若手研究者を引きつける源になっている。
また、知人を増やす事は自分の交流範囲を拡げるための必須条件である。その点でも奈川フォーラムは参加者にとって確実にプラスに機能している。
「おかみの声」に従うべきか?
どこの家庭でも「おかみの声」は神の声である。したがって、亭主はたとえ文句があっても、そっと酒でも飲んで台風が過ぎるのを待つしかない。同様に、製薬企業にとっても「お上の声」に逆らうとやっかいなことになるというのが大方の考え方である。私はこれまで創薬の現場の経験がないので、谷学の皆さんに役立つ情報は何も持ち合わせていない。無理にでも探すならば、昭和60年頃から8年間薬事審議会調査会の委員として、皆さんと対極の立場で申請資料の審査に携わった経験がある。当時は審査領域別に12の調査会に分かれており、一つの調査会は、物性、薬理、動態、安全性などの非臨床分野に一人ずつの専門家と、その合計人数を上回る臨床家により構成されていた。多くの委員は大学教授であり創薬経験はない。
しかし、臨床の委員は治験に関わっているのでそれなりに厳しいコメントを出す。非臨床分野の委員は現場を知らないので書面上の審査となる。特別な研修もないまま、いきなり厚さ10センチ以上もある概要書が送られてきて、それを読むだけでも一週間はかかる。会議当日は、事務官から「問題点があったら指示事項を出して下さい」と言われても、慣れない委員にとってはとまどうばかりである。それも、「ご意見は最新の科学的情報に基づいてお願いします」と言われても、開発から申請までに10年以上も経っていると、概要書のデータが必ずしも最新の情報に基づいているとは限らない。そこが審査委員の悩みでもある。また、最初のうちは、多くのデータを見てもそのポイントがつかめない。従って、学術論文の審査の経験に基づいて枝葉末節なことについて質問したり、文章の言い回しなど本質から離れたことを指摘することとなる。これにより、とんでもない「指示事項」が出されて、申請者はその対応に悩まされる。委員が自信のない質問ほど、どの様にでも解釈される内容が多い。
それは、審査委員にとって「どんな回答にでも反論出来る立場を堅持したい」からである。今振り返ると、最初の年に私が審査した品目はその後どう処理されて、無事に承認されたか今でも気になる。その頃気がついたことがある。大手といわれている製薬企業の概要書でも「ポカミス」を見つけることがある。例えば、概要書の中で図1と図2の表題が誤って入れ替わっていたり、薬物動態の項で、「血中濃度には線形性がある」と述べているにもかかわらず、薬理の項では「血中濃度と投与量とは相関がない」と書かれているのを発見すると、新米審査委員は待っていましたとばかりそれを指摘する。規制当局に提出するまでに社内で何重にもチェックする筈だが、この様な齟齬が発生するのは、大手では動態、薬理、安全性がそれぞれ異なる部門でまとめたせいかもしれない。最近では社内でのチェックが厳しく一元化したのでその様なポカはなくなったと聞いている。
ところで、最近、ドラッグラグを解決する目的で PMDA では多くの新人を採用した。勿論、新入者はそれなりの研修を受けるらしいが、公平にみて何十年も創薬の場で苦労している申請者の方がその「物」についてよく知っているのは言うまでもない。したがって、今でも、昔の調査会で新米委員が侵した「的外れな質問事項」が全くなくなったとは考えられない。規制当局は「ガイダンスはあくまでも”recommend”です」といっても、それを無視して自己流でやったデータについては、審査官を説得するに足る科学的根拠が必要である。審査官が納得しなければ無駄な苦労となる。さらに厄介な事に、審査官は簡単には説得されないという変なプライドがあり、それがものごとを更に複雑にする。
15年程前に米国 FDA を訪ねたことがある。
「ガイダンスとガイドラインはどこが違うか」と言う私の質問に対して、「ガイダンスはガイドラインの前段階のもの」という説明があった。それが正しいかどうか私には何ともいえないが、もしそうだとしても、両者はあくまでも「指針」であって強制力はないのは確かだ。しかし指針を逸脱すると、そのあとの収拾作業が大変である。それだったら指針に従う方が楽だというのが本音かもしれない。それとも、科学的に説明ができれば、ガイダンスにこだわることはないという人もいる。谷学の皆さんも日夜悩んでいるに違いない。
定年といかに向き合うか
米国では 1975 年に「年令差別撤廃法(The Age Discrimination Act)」が制定された。骨子は次の様な内容である。
It has prohibited mandatory retirement in most sectors, with phased elimination of mandatory retirement for tenured workers, such as college professors, in 1993.
Mandatory retirement based on age is permitted for executives over age 65 in high policy-making positions who are entitled to a pension over a minimum yearly amount.
The federal government is the largest age discriminatory employer in the United States.
英国でも2006年10月1日付で同様の法律が実施された(The AgeDiscrimination Legislation)。両国の違いは、米国の法律は高齢者を保護するのが目的なのに対して、英国の法律はすべての年齢層を対象としている。
私が尊敬する米国の友人は85歳を過ぎた今でも現役教授として研究を続けている。彼とは毎年の SOT 年会で会っているが、2010年に会ったとき、さすがの大教授もいささか弱音を吐いていた。米国の大学は研究費の申請が採択されなければ、事実上仕事を続けることができない。それは、秘書もポスドクも自分の給料さえも失うからである。彼の研究室にはかつて20人以上のポスドクがいたが、今では4?5人に減り、業績も少なくなったので研究費をとるのが非常に困難になった。米国の大学教授には定年制はなくとも、上記の悪循環が長く続くといつかは自分で身を引かざるを得ない事態になる。これに対して、永年にわたり教授を勤めた人には、一定の給料が生涯保証される tenure 教授(終身身分保障教授)の資格が得られる。それにより適当な時期に引退する人も少なくない。
我が国では、会社や大学の定年は、それぞれの会社や大学で決めるので、その年になると殆んど例外なく職場を離れる。しかし、定年後の活動の定年は自分で決めるものである。谷学の創成期の方々は、既に定年を一回、二回と迎えられているが、谷学にかける情熱は決して衰えていない。そのオーラが若い会員を引きつける要因になっている。ときには、「老いても子に従わない」頑固さが会の屋台骨を支えており、また発展させている源かもしれない。
会費制の導入 —リスク/ベネフィットのバランス
世の中には大小に関わらず専門領域毎に多くの研究者集団がある。当初は同志が集まって研究会をつくり、やがて専門学会に発展する。谷学の皆さんも幾つかの研究会、学会に加入していると思うが、私はこれまで学会の運営に直接参画したり、或は多くの学会の運営についてその実情を聞く機会があった。
100人程度の研究会は比較的平和に運営されるが、1000人を越える学会になると、その運営は並大抵ではない。中でも最悪なケースは、2?3人の親しい仲間がトップになって独裁的運営をするときである。学会の破綻は経済的理由がその原因となることが多いが、非民主的運営は役員の不信任にもつながる。
江戸時代の寺子屋は、20?30人の子弟を対象に教育していた。教育専門家の話では、この規模が最も教育効果が上がるそうである。
ここで、安全性評価を毎日の生業(なりわい)とする谷学の皆さんにリスク/ベネフィットの話をするつもりはない。しかし、別の意味のリスクもある。2泊3日の谷学フォーラムに参加するためには、会社の上司の許可が必要だろうし、場合によっては、「仕事が忙しいのにどうしても行かなければならないのか」と嫌みの一つも言われることがあるに違いない。また、週末にかかると、奥さんから「子供の世話でもして欲しい」と苦情を言われることもあるかもしれない。会社に戻ったら机がなくなっているリスクも考えられる。これらは本人にとって大きな精神的「リスク」である。しかし、フォーラムで得られた貴重な情報や経験は、本人にとっては間違いなく大きな「ベネフィット」であり、更に会社にとっても開発効率を上げる要因になる。大きなベネフィットを得るためにはそれなりの「対価」を払うのは世の常識である。ブックとして会費が免除されている私がいうのも変だが、会員の皆さんが受けるベネフィットを考えれば会費制は当然というべきである。谷学が設立されて十数年は、萩田事務局長の懸命のやりくりでどうにか活動を続けることが出来た。しかし、会員が増えるに伴って萩田さんの念力も限界を越えた。他の学会や研究会などで付き合いで年会費を出しているのに比べたら、谷学から受けるベネフィットは会費を上回るのではないだろうか。
海外に進出しよう
今年の八ヶ岳フォーラムのプログラムの中で、下村さんがご自分で交渉して米国で開催された幼若動物試験シンポジウムで発表されたとの話を聞いた。これは画期的なことである。何故か。多くの国際的集会は米国と欧州で発表者を選び、特別な場合以外はアジアに目を向ける事はない。それには幾つかの理由がある。第一は言葉の問題、第二は講演者を選ぶときに欧米から発信される新しい情報を参考にするからである。しかし、これら二つの問題とも、日本の研究者にとって解決出来ることである。
その問題点を解決する糸口として私のつらい経験談を聞いて欲しい。1995年から8年間 IUTOX に関わった。IUTOX 理事会は毎年少なくとも SOT,EUROTOX のときに2日間にわたり朝から夕方まで山ほどの Agenda を片付ける。
会議での発言は、特別な Agenda でない限り座長が指名することはなく、そのテーマについて勝手に発言する。したがって、自分から手を挙げない限り何時間でも聞き手で終る。私の場合、最初の一年間は彼らの発言や討論についていくだけで精一杯だった。それも断片的な理解なので、場合によっては間違った解釈をしたこともある。その様な試行錯誤の中で、それを打開するために自分なりに幾つかの秘策を考えた。その結果、2年目にはどうやら彼らの議論に入る事ができた。ただし、この作戦は30名前後までの会議に限る。第一に、予め送られてきた Agenda の中で、自分が発言、提案したいと思う項目について、会議が始まる前に予め資料を全員に配布する。或は予めメールで送ってもよい。
全員の手元に資料があると、言葉の問題があってもかなり緩和される。第二に、円卓会議の場合、座席が指定されていなければ、座長の正面に座る。これは常に座長と目があっているので緊張するが、発言のチャンスをつかむのには最適。
スクール形式で机が並べられている場合は、出来るだけ前に座る。第三に、発言したい Agenda に入ったら直ぐに手をあげて意思表示をする。欧米の人々は我先にと手を挙げるので、負けないでこちらも手を挙げる。そしたら必ず発言のチャンスがやってくる。IUTOX での苦労話については、谷学のホームページに掲載して頂いた「旅のこぼれ話」の中にも書いた。
本題に戻る。谷学の若手の皆さんはこれから国際会議に参加することが増えると思う。或は関係する集会の情報を見つけたら自分から積極的に申し込んで発表のチャンスを作ってほしい。欧米の研究者は自分が世界のリーダーと思っているので、アジアまで声がかかることが少ない。しかし、日本の研究者が業績を提示してしつこく食い下がると先方も理解する。私のモットーは「Action がなければ Reaction はない」である。まず action を起こす事が先決。下村さんはご自分で action を起こして reaction の機会を勝ち得た。よい手本とすべきである。
まとめ
米国 SOT は1961年に9名の発起人で設立された。その9名は薬理学、生化学、病理学、生物学などそれぞれ異なる領域の有名研究者で、彼らが”Toxicology”という境界領域の新しい学問を立ち上げた。日本では1975年に獣医出身者が中心となって「毒性研究会」を新設し、翌年の1976年に医学、薬学出身者により「毒作用研究会」が出来た。その後1981年に両研究会が合体して「日本毒科学会(現トキシコロジー学会)」が設立された。SOT の設立から20年遅れている。1992年には前述の通り「谷本学校」が開校され、製薬企業の安全性試験に関わる多くの人々の学び舎となった。
18年間奈川で続いたフォーラムは、今年から八ヶ岳の麓に場所を移した。
お誘いを受けて私も久しぶりに参加した。驚いた事に、私にとっては参加者の半数以上が初対面であり、谷学の新人教育が年ごとに普及している事を痛感した。そこで、今後の谷学について私なりに幾つかの提案をさせて頂きたい。
1.2012年7月2日?6日には、仙台で「第6回アジアトキシコロジー会議(ASIATOX-VI)」が、日本トキシコロジー学会(JSOT)年会とジョイントで開催される。毎年の JSOT 年会では「毒性質問箱」を中心とした谷学セッションが行われているが、ASIATOX-VI でも是非「毒性質問箱国際版」を企画して欲しい。
また、2013年6月23日?26日には、ソウルで「第13回国際トキシコロジー会議(ICT-XIII)」が開催される。谷学の若手研究者にとっては、国際的に発展する絶好のチャンスである。ポスター発表は原則として全部採用される筈なので、是非発表の機会を逃がさない様に action を起こして欲しい。
2.日本の研究者は常に欧米にのみ目が向いている。その理由は明白で、より最先端の情報が得られるからである。しかし、アジア諸国、中でも韓国の研究者は日本の研究者との接触を希望している人が多い。逆に、中国はいろいろな理由で、日本よりはアメリカの研究者を選択する。30年以上韓国の研究者と接している私としては、是非日韓合同の集会を開いて欲しい。韓国の研究者はそれを望んでいる。日本の研究者にとって大きなメリットはないかもしれないが、隣国との交流も将来を考えると何かの役に立つに違いない。
3.国際交流を活発にするためには情報交換が必須である。したがって、海外の研究者に谷学をアピールするためには、ホームページの主な活動や ”New”の情報だけでも英文版をつくって欲しい。海外からのアクセスが増えれば、それだけ彼らとの接点が広まり、個人的つながりや創薬における情報交換が容易になる。これも海外に対する action の一つである。
最後に一言。今年の異常気象は多くの人々の生活を撹乱し、100人余の人々が熱中症で亡くなった。それもようやく終わりやっと秋らしい季節が到来した。
日本のトキシコロジーを推進する強力な研究者集団として、谷学の若手会員はこれから是非一歩を踏み出して欲しい。かつて、厚生省の高級官僚と会ったとき、「毎日がモグラたたきの連続ですよ」と言った言葉が忘れられない。つまり、毎日起こる出来事を追っかけるのに精一杯で、新しい事業を考える余裕がない、とのことである。谷学の皆さんも毎日の仕事に追われていると思うが、その間に是非新しい事に関心をもって欲しい。いつも心の中で念ずるとチャンスは到来する。それが action であり reaction でもある。
(2010年9月記)
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