「被害者が語る地下鉄サリン事件(15年目の証言)」の重み
佐藤 哲男
5月9日夜10時から11時30分まで放映された表記の NHK 第二の ETV特集を拝見しました。この番組は、地下鉄サリン被害者を救済するために設立された NPO 法人「リカバリーサポートセンター」の活動をまとめたものです。黒岩幸雄先生はこの NPO の副理事長としてご活躍されています。
私の畏友の一人である黒岩先生は、農薬中毒に関する国内で最も優れた専門家であると同時に、今日では薬学教育の中から消えた「裁判化学」の国内では唯一の生き残り研究者です。今回の NPO は被害者救済が主な目的ですので、木村晋介弁護士が理事長になっていますが、医学、薬学の立場から黒岩副理事長は欠く事の出来ない存在です。
さて、今回の特集ではいろいろ考えさせられる場面が多くありました。サリン事件から15年を経て、世の中ではほとんど話題にならなくなった現在でも、6300人の被害者の中で多くが後遺症に悩まされていることを改めて知らされました。これらの患者は正しい病名もつけられないまま、種々の症状を改善するため、いろいろなに薬に頼らざるを得ない生活を余儀なくされています。
番組の中で、現在でも視野狭窄や縮瞳が治らない患者について、若倉医師は「サリンによる瞳孔調節機能は破壊されたのではないか」と述べています。私も同感で、このことは後遺症のすべての症状の原因と考えられます。
少量の有機リン剤の場合と異なり、化学兵器として使われた程の猛毒性のサリンの場合、長時間、大量に暴露した患者では、副交感神経系の興奮に伴うムスカリン受容体の興奮や、それに続く自律神経や神経筋接合部のニコチン様受容体の興奮が不可逆的に起こります。そのため、初期症状の縮瞳などや、その後の頻脈、脱力感等が改善されず、更には中枢神経障害による情緒不安定、運動失調、記憶消失,などが慢性的に残るのではないかと思います。
今回の特集の中で、15年経った今でも上記の症状が残っている患者の話がありました。患者にとっての不満は、診断した医師がそれらの症状の原因をサリンと確定しないことです。医師側の立場としては、これらの症状の多くは、被爆しない人でも加齢とともにみられる現象だからとのことです。また、元気で若いときに被爆した患者の場合、数ヶ月、数年で徐々に改善しますが、一部の患者では、潜在していた症状が加齢とともに徐々に顕在化する可能性も考えられます。
文献によると、有機リン剤中毒の場合、暴露から4ヶ月後に血液検査で赤血球や血漿中のアセチルコリンエステラーゼ活性が正常値まで回復しても、かすみ目、脱力感、吐き気、頭痛などを訴える患者がいるとのことです。これは有機リン剤中毒のバイオマーカーとしてのアセチルコリンエステラーゼの弱点です。アセチルコリンエステラーゼは、一定の日数が経つと新しく生合成されるため、その活性は正常値を示します。しかし、大量暴露された患者の場合は、神経系が不可逆的に障害されているために、暴露時と同じ症状が残ることになります。
後遺症の一つの原因として、サリン自体かその代謝物が体内に貯留している可能性も否定出来ません。番組の中で、長尾教授(広大、法医)は暴露15ヶ月後に死亡した例について「遅発性神経毒性」の可能性を挙げました。また、大久保教授(日医大、精神医学)は「患者の脳の画像診断を正常者の場合と比較した結果、被爆患者の海馬、扁桃体が萎縮している」ことを指摘しました。これはサリンによる神経毒性が、記憶や認知などの中枢機能にも及んでいる事を示唆するものです。また、事件当日、多くの患者の治療に当たった聖路加国際病院の石松救急部長が、「発病から10~15年経った今でも、後遺症に悩む患者を診断している」とのことに改めて長い年月が経っている事を痛感しました。さらに、元刑事の田邊氏の立場は複雑でした。事件と同時に駆けつけて現場の処理に当たった職務と、それによって被爆した患者の一人として、多くのご苦労があったことも印象的でした。
私見ですが、暴露量、暴露時間などの違いにより、幸いにも中枢、末梢神経系への影響が少なかった被害者は可逆的に機能が回復しましたが、大量に暴露した患者では、神経系が不可逆学的な損傷を受けたために、神経支配や筋肉を含む身体の機能が回復しないのではないか考えます。
余談ですが、13年前に、私どもが HAB 研究機構を立ち上げたときに、今回と同じ様に NHK の ETV 特集が組まれ、取材、放映されました。その時のディレクターの話では、放映時間の50倍の長さの時間をかけて番組の内容を作製し、それを1時間30分に編集して放映するとのことでした。今回の特集の最後に、取材協力者として、黒岩先生や吉田武美先生のお名前がありましたが、番組の作製についてはさぞやご苦労されたことと思います。
最後に、貴重な番組を拝見する機会を頂きましたことを感謝すると共に、後遺症に悩む患者の皆様にとって安心出来る社会になる事を祈念致します。
5月12日記
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