谷学発!常識と非常識 第38話 遺伝子治療とゲノム編集治療

(文献1より引用)


1.遺伝子治療の現状

   遺伝子治療には2種類あります。1つは患者の遺伝子には手を付けず、正常な遺伝子あるいは正常な遺伝子をもつ細胞を体内に送り込む方法です。
   2012年にこの方法による「実用化が期待される10の遺伝子治療対象疾患」(Target 10)が公表され、2017年までに4品目が承認、さらに数品目の承認が期待されています(※2)。日本での開発は遅れています。
   もう一つは患者の遺伝子そのものを改変するゲノム編集治療です。主なゲノム編集法には3種類あり、第一世代はZFN(Zinc Finger Nuclease)法(1996~)、第二世代はTALEN(Transcription Activator Like Effector Nuclease)法(2010~)、第三世代がCRISPR/Cas9法(2012~)です。海外では盛んに臨床試験が行われていますが、まだ承認された製品はありません(※2)。

2.ヒト受精卵のゲノム編集

   2015年、CRISPR/Cas9技術(第36話参照)を用いたヒト受精卵の遺伝子編集が世界に先駆けて中国で実施されました(※2)。中国が先行した理由は、必ずしも中国がこの分野で最も進んでいるからではなく、欧米や日本では倫理的観点からヒト受精卵のゲノム編集が規制されていたからです。この中国による世界初のヒト受精卵のゲノム編集は世界中から激しい批判を浴びました。例えば日米の遺伝子細胞治療学会は直ちに次のような共同声明を発表しました(※3):
   「ゲノム編集技術は将来、疾病治療や病態解明に極めて有用ではありますが、使いようによっては重大な倫理上の問題を巻き起こす場合もありえます。(中略)当面はヒトの胚細胞や将来個体になる生殖細胞などを対象とした、遺伝子が改変された受精卵が成育することにつながるゲノム編集技術の応用を禁止すべきであると考えます。」
   しかし、この中国の実験で重大なことが分かりました。それはゲノム編集の過程で、「驚くべき数の」意図されなかった遺伝子変異(オフターゲットの遺伝子変異)が生じたことでした。実際、その頻度は従来の遺伝子改変研究で見られていた割合をはるかに超えていました(※1)。
   それでも一旦口火が切られた科学研究の流れを食い止めることはできません。「次世代に遺伝子を残さなければ実害はない」、という論理によってヒト受精卵の遺伝子治療研究が各国で開始され、米国でも2017年には肥大型心筋症の遺伝子変異をもつヒト受精卵のCRISPR/Cas9技術を用いた遺伝子治療に成功したと報道されました(※4)。両親の片方だけがこの遺伝子変異をもつ場合、受精卵がこの遺伝子変異をもたない確率は50%ですが、CRISPR/Cas9法による受精卵の治療後には遺伝子変異をもたない受精卵の割合が72%に高まり、遺伝性疾患のない胎児をつくり出す技術の実現に一歩近づく研究結果でした。なお、治療後の受精卵は数日間しか発育が許されませんでした。

3.体細胞を対象としたゲノム編集治療

   体細胞を対象としたヒトのゲノム編集による遺伝子治療の試みも、やはり中国が先行しました。2016年末にはCRIPR技術を使った最初のヒトの遺伝子治療の臨床試験が進行性肺がん患者を対象に四川省成都で行なわれました。これに刺激され、米国でもいくつかの大学やベンチャー企業が遺伝性疾患に対する臨床試験を計画しています。例えばペンシルバニア大学の免疫学者たちは、2018年にもがんを検出して攻撃するように遺伝子編集した免疫細胞を人体に注入する臨床試験を開始予定です(※5)。またCRISPR/Cas9技術の開発者の1人、シャルパンティエは、遺伝性貧血症の「βサラセミア」と「鎌状赤血球症」の遺伝子治療の臨床試験を2018年中に開始予定です(※6)。

4.ヒトのゲノム編集のオフターゲット問題

   CRISPR/Cas9法には予期せぬ変異が多数生じる、オフターゲット問題があります。以下は私見ですが、オフターゲット変異が多い理由は進化論的に考える必要があると思われます。もともとCRISPR/Cas9システムは細菌がウイルスの攻撃から身を守るために進化させたシステムです。従ってこのシステムは、細菌がウイルスを認識し攻撃するために最も効率的なシステムとして進化したはずです。しかし、ウイルスの遺伝子に対しては最適でも、哺乳動物の遺伝子を扱うためには最適でない可能性があります。細菌がウイルスの遺伝子を認識してこれを切断・破壊する際に用いるリードRNAが認識するのは、ウイルス遺伝子上の数十塩基対という、極めて少ない情報量に過ぎませんが、これほど少ない情報量で目的が達成できる理由は、ウイルスが持つ遺伝子が単純で、細菌自身の遺伝子とは異質であるために、少ない情報量でもウイルスの遺伝子の特異的認識が可能であるためと考えられます。ところがヒトのゲノム編集の場合は、標的は自己(ヒト)の遺伝子です。もし標的遺伝子の数十塩基対と同じか、酷似した塩基対のセットが他にもあれば、ゲノム編集の際にリードRNAがそれらの類似遺伝子にも結合し、切断するため、オフターゲット変異が多発すると考えられます。つまり、ヒトのゲノム編集の場合、わずか数十塩基対の参照では目的の遺伝子の特異的認識が無理なのかも知れません。あくまでも私見ですが、この仮説で、ヒトのゲノム編集でオフターゲット変異が多数生じた理由は説明できます。
   ゲノム編集治療には他にも未知の重大な問題が潜んでいる可能性があります。1例として、理化学研究所(理研)バイオリソースセンター新規変異マウス研究開発チームがマウス細胞を用いて、CRISPR/Cas9技術により6種の細胞株に目的とする遺伝子変異を導入したところ、全ての株が「定型外翻訳」によってほぼ全長の想定外タンパク質を発現していました。この結果は、「ゲノム編集を行う場合、標的遺伝子以外のオフターゲット変異配列の確認だけでなく、異常なタンパク質の発現まで確認する必要がある」ことを示しています(※7)。
   ゲノム編集治療に関して、最近さらに大きな問題が提起されました。2018年6月12日、スエーデンのカロリンスカ研究所は、CRISPR/Cas9技術で遺伝子を改変した細胞はがん化するリスクが高まるとの研究成果がNature Medicineに掲載されたと発表しました。効率よくゲノム編集できる細胞ではがん抑制遺伝子p53が働かない可能性が高いことが原因といいます。(※8)
   人類はゲノム編集に伴うリードRNAの誤認識やがん化促進問題をいつかは解決するでしょう。しかしそれまでは当面、ゲノム編集は農業・畜産・水産分野に限定すべきと思われます。これらの分野では、いろいろ試してみて、成功した個体だけを残し、失敗した個体は廃棄すれば済みます。しかし、ヒトの遺伝子治療の場合は、失敗作の廃棄は許されないからです。

(馬屋原 宏)

1)AFPニュース2015年4月24日:http://www.afpbb.com/articles/-/3046387
2)内田恵理子:https://www.kantei.go.jp/jp/singi/kenkouiryou/genome/advisory_board/dai4/siryou4-1.pdf
3)日本遺伝子細胞治療学会:http://jsgt.jp/INFORMATION/statement_jap_vers.pdf
4)AFPニュース2017年8月3日:http://www.afpbb.com/articles/-/3137938
5)Ascii.jp:http://ascii.jp/elem/000/001/620/1620466/
6)WIRED: https://wired.jp/2018/01/27/crispr-therapeutics/
7)つくばサイエンスニュース:http://www.tsukuba-sci.com/?p=1381
8)KI News Online :https://ki.se/en/news/genome-editing-tool-could-increase-cancer-risk