谷学発!常識と非常識 第77話 生命の起源と進化⑦ ―ダーウインの『種の起源』について
1.幸運に恵まれていたダーウイン
チャールズ・ダーウイン(1809-1882)は幸運に恵まれた人でした。最初の幸運は彼が英国の裕福な家庭に生まれたことでした。彼の祖父エラズマスは医者で、植物学者・作家でもあり、父も医者で投資家、母は陶磁器ウエッジウッドの創業者の娘でした(※1)。英国は1750年頃に始まった産業革命により、世界最強の軍事・経済大国となりつつあり、海軍の測量船ビーグル号(木造帆船)による3回、計15年間にわたる世界周航も大国化の象徴でした。彼の次の幸運はそのビーグル号に乗船できたことでした。第2回周航時のフィッツ・ロイ艦長は、第1回周航の2年目にストークス艦長がうつ病で自殺したことを気にして、話し相手になれる良家の子息を乗船させたいと考えていて、恩師ヘンズロー教授の推薦と、父親が費用を負担してくれたことでダーウインの乗船が実現しました。その時彼はケンブリッジ大学神学部を出たばかりの22歳でした。ビーグル号の主な任務は南米大陸の沿岸の測量で、船が沿岸を測量している間に博物学者たちは内陸を探検し、動植物の標本を採集しました。次の幸運は船医兼博物学者が途中下船し、彼がその跡を継いだことでした。彼は標本を保管のためヘンズロー教授に送り、教授は彼を手紙で指導しました。彼は帰国後も生活のために就職する必要がなく、生涯を田舎で、進化論の研究と執筆に捧げることができました。
2.ダーウインの『種の起源』出版の背景
ダーウインの時代は進化論の誕生の機運が熟していました。彼が生まれた1809年に、ラマルクが『動物哲学』を出版し、全ての生物は進化の途上にあると主張し、進化の原動力として「用不用説」と「獲得形質遺伝説」を提案していました。また、ダーウインの出港の際、恩師ヘンズロー教授は、その前年に出版されたばかりのライエルの『地質学原理』の第1巻を、餞として彼に贈りましたが、「各地質時代の地層にはその時代特有の化石がある」とのライエルの主張は、ダーウインの進化論の形成に大きな影響を与えました。そして『種の起源』の出版の直接のきっかけになったのは、14歳年下の生物地理学者ウオーレスが1858年にダーウインに送ってきた1編の論文の原稿でした。ウオーレスはダーウインの『ビーグル号航海記』(1839-43、※2)を読んで探検を志し、アマゾンや東南アジアの熱帯雨林の動植物標本の採集人をしながら独学で生物地理学者になった人物で、彼の名はインドネシア列島を2分する生物境界線「ウオーレス線」に残っています。その原稿はダーウインにとって青天の霹靂でした。世界周航から帰還後、20年以上かけて出版準備をしてきた「自然選択による進化」が書かれており、ライエルに回してほしいと添え書きされていたのです。困ったダーウインはライエルに相談し、ライエルはダーウインとウオーレスが進化論を同時に発表する場をリンネ学会に設定し、発表内容は学会紀要に掲載されました(※1)。ダーウインはライエルの勧めで書き溜めていた原稿を要約的な内容に書き直し、翌1859年に『種の起源』を出版しました。この本に動植物の図版が1枚もないのは要約として書かれたためと、図版を用意する時間がなかったからでした。彼は『種の起源』を補うために、その後計10編の著作物を公表していますが、『種の起源』の続編とみなされる『人類の起源』(1871)には多数の動植物の図版が含まれています(※3)。
3.ダーウインの『種の起源』の内容
『種の起源』の英文タイトル “On the Origin of Species by Means of Natural Selection, or the Preservation of Favoured Races in the Struggle for Life”が示すように、彼は新しい種が、自然選択(Natural Selection)、あるいは生存闘争(Struggle for Life)による適者生存(Preservation of Favoured Races)によってもたらされると考えていました(※4)。
ダーウインは種が分化する前提として、第1・2章で種内に存在する個体変異に注目します。第1章「飼育栽培下における変異」では、自身で飼育していたハトを例に、様々なハトの品種が単一の起源種から生じたこと、また品種改良では繁殖者が好みの形質を持った個体同士のかけ合わせを繰り返すこと、つまり人為的選択が必須であることを説明します。人の関与は必須であり、例えばブルドッグは頭が大きすぎて帝王切開でしか生まれないので、人が存在しなければブルドッグも存在しません。飼育栽培下では人為的選択が新品種を生み出すことを示してから、第2章「自然条件下での変異」に移ります。ここではサクラソウ属の2種のプリムラの野生種を例に、野生種、変種、亜種、別種の分類が専門家でも異なることから、これらを明確に区別する定義がないこと、種は暫定的な区別であり、個体変異の蓄積によって新しい種が分化する可能性を述べています。
第3章 生存闘争、第4章 自然淘汰、第5章 変異の法則の3つの章では、種の分化のメカニズをより詳細に論じています。種内に個体変異が存在し、環境により良く適応できる個体が生き残りやすいこと、また、種内あるいは種間の生存闘争の結果、生き残る可能性が高い個体ほどそれらが持つ形質を子孫に伝える可能性が高く、長時間かけて種内に個体変異が徐々に蓄積し、変種や新種が分化すると説明します。彼は自然を擬人化して、この過程を「自然による最も生存に適した種の選択」とみなし、この過程をnatural selection、自然選択(または自然淘汰)と呼びます。
なお、種の分化についての考察は『ビーグル号航海記』にもあります。5年間の航海で最も印象に残ったことは、南米沿岸を移動するにつれ、生物が少しずつ近縁と思われる種に置き換えられていったこと、特にガラパゴス諸島ではイグアナ、陸ガメ、フインチなどの鳥の形態や食性が島ごとに異なること、イグアナは同じ島に草食の陸生種と海藻食の海生種が棲み分けていることなどが記録され、これらの生物が南米産の生物によく似ていること、またガラパゴス諸島が全て海底火山の隆起によってできた火山島であることから、生物がいなかった島に南米大陸の祖先種が海流に乗って流れ着き、各島の環境に適応して多様化した可能性を考察しています(※2)。
4.ダーウインの『種の起源』が不朽の名著になった理由
『種の起源』が不朽の名著になった主な理由は3つ考えられます。第1の理由は、彼が自分の進化論の中の、論敵から攻撃されそうな問題点を予め予想し、緻密な反論を準備し、『種の起源』の第6~10章に盛り込んでいたことです。例えば彼は、「進化の途中にあたる中間段階の生物の化石が殆ど見つからないのはなぜか」という疑問に対し、「化石はもともと特殊な条件でしか残らない。種が分かれるときには、中間段階の個体数が少なく、分布エリアも狭いので、化石として残りにくいのであろう」と書いています(第6章)。また、「働きアリは完全に不妊なので、働きアリに生じた変異は次世代には伝わらない。すなわち、働きアリの進化は自然選択では説明できない」という異議に対しては、「自然淘汰は家族にも適用可能なので、働きアリの変異も次世代に伝わる」と答えています(第7章)。2つ目の理由は、彼が確実でないことや、世間の反発を受けそうなことは『種の起源』に書かなかったことです。例えば書名が『種の起源』であるにも関わらず彼は「種とは何か」を定義していません。また『種の起源』では、宗教界からの反発を受けそうなヒトの進化については一切触れていません。幸いにも彼の進化論を熱烈に支持する自然地理学者ウオーレスや、「ダーウインのブルドック」と自称し、のちに『自然における人類の地位』(1873)を出版することになる人類学者ハクスレーが世間の反発を肩代わりしてくれたこともあり、『種の起源』は学界に広く受け入れられました。そして3つ目の理由は、『種の起源』の出版の数十年後に再発見されたメンデルの遺伝の法則や、約1世紀後のDNA、遺伝子及びその突然変異の発見によっても、ダーウインの進化論が否定されず、かえってネオ・ダーウイニズムとして強化され、現在も発展しつつあることです。これはダーウインの進化論が基本的に正しかったことを示しています。(第78話に続く)
(馬屋原 宏)
引用文献
1)今西錦司:『ダーウインの生涯』、「世界の名著」39巻、中央公論社(1967)
2)チャールズ・ダーウイン:『ビーグル号航海記』、内山(翻訳)、Kindle版
3)チャールズ・ダーウイン:『人類の起源』、池田次郎・伊谷純一郎訳、今西錦司責任編集、「世界の名著」39巻、中央公論社(1967)
4)チャールズ・ダーウイン:『種の起源』(上・下)、渡辺 政隆訳、光文社古典新訳文庫 (2009)
5)レズニック,D.N.:『21世紀に読む種の起源』、垂水雄二訳、みすず書房(2015)